今朝、自宅から大学に向かう途中で道を横断する亀を見た。国道25号に入るT字路の信号あたりだ。正確なサイズはわからないが、おおよそ体長30センチを超えるであろうほどの大きさである。ちょうど奈良県と大阪府の境目あたりで、亀は大和川から里山の方向へ移動していた。地元の人間でないとわからないかも知れないが、国道25号は片側1車線とは言え、大阪市から河内を通って大和郡山あたりへと続く幹線道路で、大型トラックの行き交いも多い。亀はゆっくりと歩き、自動車が通るたびに頭と手足を甲羅に引っ込めている。自動車を危険と認識して正しく反応しているのだ。その様子が切ない。自然界にあってはこの程度の大きさの亀の甲羅が破壊されることはあり得ない。亀の安全は甲羅によって守られるはずである。しかし、国道上の甲羅は、亀の命を守るためにはあまりにもか弱い。もし自動車のタイヤが通過したら、結果は明らかだ。
僕は大げさに亀を避けて通過し、後続車に亀の存在をアピールしておいたが、それで亀の安全が保障されるわけではない。多少交通の妨げになっても、自動車を停めて亀を待避させておくべきだったのではないかと悔やまれた。
3時間後、僕は小学校へ向かうため同じ交差点を通過した。梅雨時だが路面は乾いている。体長30センチの亀が轢死したような痕跡は全くなかった。とにかく無事に横断ができたことを確信して、心のつかえが取れたような気がした。
こういう時に感じるのは、人間という存在が地球にとっては全く無用なものであるという確信に満ちた感情だ。怯えながら国道を横断する亀は、まさしくその象徴ではないのか。人間が地球に存在していることが地球にとって有益であったという「歴史的事実」を、僕たちは残すことができるのだろうか。「人災」しか残せないのであれば、僕たちはそれを恥じなくてはならない。人間として生きる誇りは、地球への感謝と敬意に裏付けられていなければあり得ないと考えるべきだろう。