サイトとはあまり関係ない話だが、40年近く前に(小学校の後半頃)アインシュタインの「相対性理論」に凝っていた時期があった。当然のことながら相対性理論の数式は理解できないので、もっぱら文章の読解によって理解したのみである。
人間が光速で移動する場合に時間の経過が止まる。光速に至らずとも、人工衛星だとか飛行機だとか高速移動する乗り物に乗っている場合には、時間の流れがわずかながら遅くなると言うことを「情報として」得たのはその頃だ。たとえば光速を超える速度で地球を脱出したとする。光の速度を追い越した瞬間に我々は過去の地球の姿を目にすることができることになる。過去を直接視覚的にとらえることができるわけである。光速を超える乗り物があれば、我々は過去を見ることができるというのが当時の僕の理解だった。
これには非常に困難な課題があって、まず光速を超える速度で移動する乗り物を造ることはできない。それから、光速で移動する人間にどのような身体的負担がかかるのかわからない。「科学的空想」というべきものだととらえていたような気がする。
ところで昨日目にした小学生新聞に「時間旅行は可能か」という見出しがあるのを見つけた。そこにはおおよそ次のようなことが書いてあった。「未来へ行くのは可能であるが、過去へ行くことは困難である」ということだ。この記事にもアインシュタインの相対性理論への言及があって、たとえば光速に近い乗り物に乗って10年間宇宙旅行をして帰ってくると、地球の時間は70年経過しているので、70年後の未来を見ることができると書いてある。
ここで少し立ち止まって考える。「時間旅行」というのは旅行であるから、出発点に(すなわち出発した時代に)戻ってきてはじめて旅行と言えるのではないか。だとすれば、片道切符の未来行きというのは「時間旅行」ではない。不可逆であって過去に戻れないからである。結局のところ「浦島太郎」にはなれるけれども「時間旅行者」にはなれないのだ。だったらいさぎよく「時間旅行」は不可能ですと言って欲しかった。これは「時間旅行」のカテゴリーに位置づけるべきではなくて、結局「老化抑制装置」で長生きをすると何を経験できるかを語ったに過ぎないのではないか。
光速を超えたときに何が生じるのかを語ってこそ、「時間旅行」の見通しが描けるのではないか。安直に空間の歪みを通る「ワープ航法」などを持ち出さないのは良いことだと思うが、「時間旅行」が理論的に実現可能となる条件くらいは記事にして欲しかったと思いながら読んだ次第である。時間旅行はあくまで「サイエンスフィクション」においてしか実現できないのか、それとも「理論的な可能性」があるのかどうか。アインシュタインの相対性理論のあらすじを読んでから40年近く経っているので、自分ではリアルに語れないというところに非常にもどかしさを感じる記事であった。
時間旅行が実現するとしたら「時間旅行倫理規定」なども整備されるのだろうか。そこには当然歴史を変えるような行為を禁じる条項が入るはずである。自分の過去を少しだけ細工して、現在の自分を少しだけ変えてみる、ということは結局実現しないことになる。そこが残念である。