3月11日から半年が過ぎた。僕が地震のニュースを見たのは出先だった。夕刻に全国紙のWEB版を目にすると、東北地方太平洋側で最大震度7、M7.8の巨大地震が起きたことが報じられていた。しばらくするとマグニチュードはM8に上方修正されたが、それすら過小評価だった。現実にはM9という信じがたい規模の地震が起き、津波が太平洋岸を襲っていたことを夜のニュースで知ることになる。数日間はすべてのマスメディアが大震災の報道一色に染まった。
9月11日には震災後半年の特集報道がなされ、再びあの日の出来事が、そしてそれ以後の被災地の様子がテレビの画面に流された。
つぶやきのまとめ(新着が上)
*郷土を離れている期間に、子どもたちが経験できたであろう様々なコトやモノを後から提供することは不可能である。僕は責任の所在を追及するつもりはない。判断材料も充分に持たないからだ。ただ、子どもたちが受けるはかりしれない影響を重く受け止めるべきだと考える。
*僕は郷土における経験を人間形成の根源と考えている。その意味で、郷土を破壊され、あるいは郷土を去らざるを得ない子どもたちの受けた影響ははかりしれない。何年後かに郷土が元通りの物理的環境を回復したとする。しかし、時間は不可逆である。
*つい先日も紀伊半島が豪雨の被害に襲われている。この被害もおそらくは100年に一度あるかどうかの非常事態だ。なぜ今年はこんなことがあるのか。なぜ自分たちがこのような被害に遭うのかと感じているかも知れない。被災者でない僕にはその痛みを想像することしかできない。
*被災地でも、福島は深刻な状況にある。収穫がなされている野菜や梨は消費者に敬遠されている現状がある。収穫を目前にした稲もおそらくは市場から敬遠されるであろうと語る農家の言葉がつらい。福島は実りの秋を、心の痛みを持って迎えているのだ。家や家族が無事であっても、無事とは言えない。
*農産物の収穫期になった。今日のテレビ報道で長野県栄村の状況を目にした。地震のため稲を育てることができず、代わりに植えた蕎麦が花をつけている。今満開だそうだ。蕎麦の白い花は栄村にとって今年がいつもと違う年であることの象徴のように見える。
*学校教育には限界があるが、一般的には学校教育のキャパシティが過大評価されていると思う。子どもを任せたいと思える教師、学校を作らねばならない。それは教師のみでは作ることが出来ない。行政も家庭も地域社会も、欠かすことの出来ない役割を持っている。
*人格形成期の経験がその人の個性となる。何が必要な経験であるのか、何が有害な経験であるのかは明言しないでおこう。だが、今の若い世代を見ていると個性に多様性や深みが欠けている人が少なからずいることが気にかかる。教師を目指す諸君には自らの経験の厚みを顧みて欲しいと思う次第である。
*我が国の財政は危機的な状況にある。大震災の痛みを分かち合うことに異論はない。ただし、震災前の財政がすでに危機的な状況であった事実も忘れてはなるまい。財政を悪化させ続けたのは、政治であり行政であるかも知れないが、結局将来の見通しを持った政治的参加をしていなかった我々の責任なのだ。
*被災自治体では職員が不足しているため、他地域の自治体や総務省から人的応援を受けているようだ。その一方で、被災地では企業や店舗の活動ができず、雇用が失われている。行政や経済の素人から見れば、不合理な現実に思えてしかたがない。
*NHKは東日本大震災の大きな特集を組んでいる。たしかに被災地に寄せられる思いは伝わってくるが、復興の形が僕にはまだ見えない。
*東日本大震災から半年が過ぎた。残念ながらこの震災は過去の出来事ではなくて、現在進行中の出来事である。復興のスタートどころか、原発の冷温停止、除染などの事後処理にも相当の時間が必要であるようだ。個人的な印象だが、復興の本格的開始が遅れているようだ。被災地の暮らしが復旧するのはいつ?