授業で教育実習の振り返りをすることにして、実習報告を提出してもらった。そのうちの1/4ほどは実際に研究授業を見せてもらっている。読みながら自分の教育実習を思い起こしてみる。もう30年も前のことだが記憶は鮮明だ。
僕は教員養成学部ではないので、教育実習は学部4年生の6月だった。前の年、出身高校にお願いして教育実習をさせていただくことになった。母校は快く実習を受け入れてくれた。事前指導は実習開始の前々日の土曜日だった。国語科研究室を訪ねると使用している現代国語と古文の教科書を渡されて、月曜日1限から授業がありますので頑張ってくださいと言われた。まず参観してから授業をさせてもらうつもりでいたため大いに慌てた。2週間で30コマ程授業をさせてもらった。
2週間の実習中、現代国語では川端康成の『掌の小説』、古文では『方丈記』を扱った。古文の文法や語彙の面で僕は生徒よりは知識も読解力もあるが、現代国語はそうではない。「バッタと鈴虫」という作品に描かれているのは淡い恋心にも似た少年少女のみずみずしい感情である。僕がそれを充分にとらえることができていないことは授業を始めると間もなくわかった。生徒の方が掌編小説の世界に近い感覚を持っている。それをありきたりの分析的解釈で破壊するのがためらわれる思いだった。
指導教諭はバスケ部の顧問で、毎日夜まで部活の指導があった。毎回学習指導案を持っていくと必ず「よろしいんじゃないですか。まあやってみてください。」という反応で、決して何かを批判されたことがない。批判されないのはかえって不安である。どこが良くてどこが悪いのかもう一度自分で考えなければならない。それがはっきり自覚できるのは授業の場面だ。問い方が悪ければ反応が悪くなる。焦るとさらにしどろもどろになる。僕が専攻していたのは教育方法学で、主として小学校の社会科授業が専門だった。高校の国語授業では、大学で学んでいることがほとんど活かせなかったという後悔が残った。
最後の授業の後で、反省会があった。「板書の字が高校のどの先生より美しかった」、「方丈記の朗読が朗々としていて良かった」・・・。うーむ。結局授業の方法では全く褒められていないではないか。最終日に生徒に書いてもらった感想もほぼ同じだった。「字と朗読」、評価してもらえたのはそこだけだったようだ。
実は教育実習より前、学部3年生に時に1週間のゼミ合宿で、奥三河の小学校に通っている。全校児童100名に満たない小規模校である。それ以外にも頻繁に小学校の授業参観をし、小学校の授業実践をしている。それに比べると教育実習は不本意だったと思う。
ゼミ合宿では小学校3年のクラスに貼り付いて過ごした。3年生はかなり活動的、言い方を変えれば感情を身体で豊かに表現する年齢段階である。身体的にはハードだが、もっとも興味深い学年である。ある日、校舎に迷い込んだ小スズメが窓ガラスにぶつかって落命した。僕が動かなくなったスズメを手のひらに載せて涙を落としていたら、クラスの子がどこからか小さな白い箱を持ってきた。箱に白いハンカチをおいて、スズメを寝かせた。ひとりの子がティッシュペーパーを小さく折りたたんでスズメの枕を作った。みんなで校庭の片隅に小さなお墓を作って「スズメのはか」と墓碑を立てた。当たり前のように命を愛おしむ気持ちが伝わってくる。この子たちがこのまま大人になって欲しいという思いが、それ以来僕の心の中にあるのだと思う。
大人は子どもたちの感性に及ばない。何かを教えるのではなく、子どもたちと一緒に学ぶ。いや教えてもらうことの方が多い。その子たちを育てる責任は大人にあるわけである。教師の担う責任は大きく、そして極めて重要だと思っている。
教育実習を終えた3回生が、学校教育に対する意識を大きく変えて帰ってくる。大学では学ぶことができないその経験がおそらくは大学生活の中でもっとも重要であると言って過言ではない。大学に戻って、焦点化された「自分のテーマ」を追及して欲しいと思う。大学は、何人の教員を輩出するかで価値を問われるべきでなく、有為な人材を送り出すことができるかで価値が問われるべきだろう。今年の3回生に期待したい。