「なぜ学習者にとって日常的なありふれた教材が良いのか」という質問を受けたので、こちらにも書いておく。
学習者にとって、奇異で珍しいものに価値がないわけではない。新しいモノやコトに出会うことで知的好奇心を刺激されて探求意欲がわくことも事実だ。そもそも学校教育において学習者にとって未知なるモノを扱わずに済ませることが出来るはずもない。
そうであるならなぜ、教材開発において「日常的なありふれた教材」が望ましいと話したのかというと、理由は主に2点ある。
第一に、特に低学年・中学年の子どもたちにとっては学習活動の場と日常生活の場が重なっている。学年が上がるにつれて次第に身近な教材だけを扱った授業構成が困難になってくる。「ありふれた日常」こそが、学習対象としての価値ある存在であるという確信を子どもたちに持って欲しい。学習対象となる事物や事象が、他の要素といかに関わりを持ってその姿を見せているのかをとらえることも可能である。遠い土地の珍しい事物や事象では、教材そのものを把握する視点も限られるし、他の要素との相互関連を見ることも非常に難しい。「ありふれた日常」への探求が、学習の深化に寄与するという確信を子どもたちに持たせたいのである。
第二に、子どもたちに身近なモノやコトへの親しみや誇りを持って欲しいというねらいがある。教科書に載っているモノや世界遺産や国宝が身近になかったとしても、それは子どもたちの生活空間の無価値を意味するのではない。「ありふれた日常」に関わる主体は、まず子どもたち自身であり、子どもたちの身近な人々であり、そして子どもたちの先祖たちである。「ありふれた日常」と関わることで、地域社会についての理解を深めるのみでなく、その地域への愛情と誇り、その地域に暮らす人々、その地域で生きた人々への親しみと共感を持って欲しいのである。それが地域を学ぶ価値でもあり、生活者として行政や政治へと関心を広げる足場となるはずである。
ここでは限られたことしか書けないが、趣旨として受け取っていただきたい。ただし、「ありふれた日常」以外の教材開発をすることを批判することはないので、出来るだけユニークでオリジナルな教材を、学習活動と合わせて構想していただきたいと思う。