僕の専門外であるから正確にはわからないが、我が国は世界有数の地震国であり、世界有数の火山国であるという認識を持っている。東海地震に備えて「地震予知連絡会」なるものが設立され、充実した観測態勢が取られている点などでも世界に先んじていたはずではなかったか。
しかし、100日前にM9.0という巨大地震が発生し、巨大津波が沿岸部を襲った。そして、地震と津波の被害に加えて、炉心溶融を起こした原子力発電所の制御にも全力を傾けねばならない状況に陥っている。日本が再生復活できるのかという先の見えない不安を感じているのは、被災地にとどまらないだろう。
過日、村上春樹氏がカタルーニャ国際賞授賞式で「第2次大戦で核爆弾の被害を受けている日本人は、いかなる形であれ核に手を出すべきではなかった」という趣旨の発言をしている。スピーチの全文が毎日新聞ネット版に掲載されていた。いつまで下記リンクが存在するのかわからないが、示しておく。
http://mainichi.jp/enta/art/news/20110611k0000m040017000c.html
http://mainichi.jp/enta/art/news/20110611k0000m040019000c.html
世の中には絶対的に正しい選択肢はあり得ない。選択肢には、相対的にみて説得力があるかどうかの違いがあるだけである。そもそも相対的に見る際にも、時代や立場によって考慮される要因が異なるから、相対的な正しさもまた複数存在することになる。
社会における意思決定は、「社会科的な知識理解」のみで行えるものではない。この原子力発電所の問題もそうである。そもそもウラン235の核分裂エネルギーを利用するにあたって、複数の分野の専門家による功罪両面から検討がおこなわれているはずである。自然に手を加えることが問題であるなら遺伝子操作など許されざる傲慢な行為であることになろうし、そもそも人類が作ってきた現代社会の存在の是非が問われなければならないことになる。
爆弾に使えるほどの莫大なエネルギーを平和利用することで、僕たちは恩恵を受けてきたはずである。いずれは再生可能エネルギーへと転換するべきところだが、二酸化炭素の排出が問題とされている今の時代にあっては、「安全性を最優先しながら、核エネルギーを利用する」というのは、未熟な人類にとって「やむを得ない」という判断に立って現状があるわけである。ただし、「安全性の優先」が「経済効率の追求」の阻害因子であった故にこのたびの悲劇が生じたのだ。
福島の事故を受けて、ヨーロッパ諸国はいち早く脱原発を打ち出しているが、隣国中国は当面原発推進政策を変更する気配はないようだ。これも、どちらかが正しいと言い切ることはできない。
これまで、災害に関わって「予知」が行われ、想定される事態に備えた「防災教育」が行われてきた。しかし、自然災害は人間の想定を超えるものであるということが明らかになった今、「災害からの復興」が大きな教育的課題として位置づけられるべきだろう。
第2次大戦終戦時に復興をイメージできていたのだろうか。何年で復興できるかなど想像もつかなかったのではないか。僕は終戦から16年目に生まれた。記憶にある限り、戦争の痕跡は残っていなかった。「戦争を起こすまい」という意思を持った日本がそこにはあった。
時代の活力が違うかも知れない。今は誰もが東日本大震災からの復興に何年かかるかわからないと感じている。想像より早い復興が実現するかも知れないし、そうではないかも知れない。いずれにせよ、復興の後には「震災の経験」を持ったより強固な日本がそこにあるはずである。