何とか書斎に本を収納しようと試みたが、結局は床の上に積み上げるにとどまった。A4ファイルを収納できる棚は限られているし、文庫と新書はサイズが小さいが書棚の空間を無駄に使ってしまう。手前と奥に2層に収納することで収めると奥の書名が見えずに不便である。
学生時代に買った本は奥付に購入日と購入書店を鉛筆書きしてある。文庫本は岩波と新潮が多い。新潮文庫は主に文学系で何度も読み返した痕跡があるが、岩波文庫はそれほど傷んでいない。
1980年代頃までの岩波文庫はハトロン紙のカバーに覆われていて、それはとっくに朽ち果てている。たまたま目に入ったペスタロッチの『隠者の夕暮・シュタンツだより』を手にとって奥付を見る。1943年に初版が出て改版されぬまま1982年の第39刷を購入していた。旧仮名遣いはともかくとして、凸版印刷であるから文字が多少つぶれている。最近の平板印刷に比べると字が読みづらい。この本は警句的な短い文章を重ねたもので、含蓄のある表現というか解釈に幅がある表現が多いのだが、やたらと鉛筆の書き込みがある。自分がいつこの本を入手して、どのように読もうとしたのかということがわかって面白い。
同じ頃に購入したベルグソン『道徳と宗教の二源泉』、W・ジェイムズ『プラグマティズム』、フッサール『純粋現象学及現象学的哲学考案』(上・下)、ロック『教育に関する考察』、フレーベル『人間の教育』(上・下)、デカルト『方法序説』、ベーコン『学問の進歩』、『随想集』、ルソー『エミール』、『孤独な散歩者の夢想』、『人間不平等起源論』などにも、付箋や書き込みがあって、教育学系の「教養」を得ようともがいていた様子がよくわかる。
少し毛色の変わったところでは、『論語』、『古事記』、徳冨蘆花『自然と人生」、坪内逍遙『小説神髄』などにもあちこちに紙片の目印が挟んである。
新潮文庫はそのラインナップが僕の好みに合っていたのだと思うが、主として小説を買っている。紐の栞が付いていたのもポイントかも知れない。新潮文庫の方は書き込みがない。エンデの『果てしない物語』が付箋と書き込みだらけなのに、新潮文庫にはそれがないということは、僕自身がエンデを小説として読んでいなかったことの証左かも知れない。子どもが読んだときの解釈や影響を考えようとしていたためと思われる。
奥付の頁に購入日と書店名が記されていないと、購入したときの関心や意図がわからなくなりそうなので、最近はそれらを記すようにしている。ただし「Amazon」と記されている本が最近多くなっている。近所に大手書店がないという理由が大きい。やはり大きな書店が近くにあって欲しいものだ。
懐かしい本をめくっているうちに深夜になってしまったので、今使う本は明日読むことにしよう。